日本にも動物保護法を作ろう!
太郎の友 動物愛護法改正案に反対します
環境省「動物取扱業の適正化について(案)」に関する意見 2011年8月24日
改善すべき項目
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指導・査察対象を動物取扱業者に限定する制度を廃止し、一般飼育者・獣医師・畜産関係者・狩猟者・研究者・行政官・民間殺処分執行者も含めすべての飼育者・取扱者を対象に「飼育(取扱)ライセンス制度」を導入すること。(脚註3を参照)
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動物福祉に反する不正な行政行為を防止するため「行政監視制度」を導入すること。「行政監視制度」によって、残酷な殺処分方法を用いること、不正な行政殺処分を行うこと、救助すべき動物を放置すること、不正な査察・不正な行政処分を行うことを防止すること。(脚註3を参照)
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行政による動物保護団体排除政策を改めること。殺処分に反対する動物保護団体を動物愛護法策定過程に加えること。
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感染症対策・生物多様性対策などの殺処分政策を現行法から分離・廃止し、「殺処分行政」から「保護行政」に転換すること。
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査察・取り締まりによって救助された動物・被災動物の行政保護義務を定めること。
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善意の動物保護団体への本来負うべき行政義務を履行すること。保護養育費・保護施設整備費・医療費・登録料・狂犬病予防接種料などを行政が負担すること。
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名称を「動物の愛護及び管理に関する法律」から「動物保護法」に改めること
趣旨
今法案には行政殺処分を廃止するための制度が盛り込まれていない。残酷な行政殺処分方法も放置したままである。これまで通り偽りの愛護法である。個々の項目を審議する前に全体の制度設計を正しく行わなければ殺処分はなくならない。査察・取り締まりが行われる際の救助された動物の行政保護義務にも触れられていない。査察の対象を決めたり増やしたりする前に、救助された動物を法律でどのように守るかを決めなければ救助自体ができないはずである。これでは査察制度自体が動物を助けるための制度なのか、殺処分するための制度なのか区別すらつかない。もっともいくら虐待動物の保護義務を定めても、肝心の殺処分制度自体が改善されていなくては、ところてん式にそのほかの動物が殺処分されるだけである。研究者が用いる残酷なエッグトラップ、行政が用いる絞殺罠、狩猟者による逆さ吊り罠、くくりわな、トラバサミ、捕獲罠の中で死なせるクリハラリス殺処分、獣医師や行政官による口蹄疫消毒薬殺処分、農家が用いる消毒薬殺処分、管理センターでの炭酸ガス殺処分、委託獣医師によるサクシン殺処分、こどもたちによる代行駆除、行政による餓死政策、すべての問題が放置されたままである。動物愛護法作成者は動物たちが置かれた悲惨な現実を認識して、原因に応じた対策を早急に導入すべきである。一般飼育者を含めた飼育者・取扱者全体の規制、行政監視制度の導入が急務である。
規制の対象として今回もまた、最も多く虐待を繰り返している環境行政が無罪放免になっている代わりに、動物保護団体の監視制度が俎上に上っている。原因を作り出した行政・愛護法を放置して、その解決に苦労する人々を監視するとは極めて異常な法案である。私たちの動物保護施設「太郎の友」(旧:雲仙被災動物を救う会)では、行政殺処分から動物たちを守ることを目的に、現在犬約130頭、猫約50匹の保護養育を行っているが事前の意見聴取はなされなかった。極めて遺憾である。太郎の友で保護する動物はすべて一般飼育者の無責任な飼育によるものである。犬の場合、約30%が一般飼育者からの持ち込み、約20%が高齢の被災動物(一般飼育者が置き去りにした被災動物が、被災地で繁殖し野犬化したものを保護したもの)、約30%が遺棄されたもの、そのほか不良飼い主等から救助したもの、遺棄動物を保護した警察・動物愛護家・動物愛護団体などからの依頼である。猫の場合、動物愛護家が保護した遺棄動物が多い。飼育者死亡等を除けばすべて一般飼育者の放棄に辿り着く。それにもかかわらず今法案ではこれまで通り一般飼育者の規制がごっそりと抜け落ちている。いったいいつまで動物愛護法作成者たちは頬被りしているつもりなのだろうか?動物飼育を放棄する一般飼育者の脅し文句は次のものである。「身代金を支払わなければ子供を保健所で殺すぞ!」この法案が成立すると今度は保健所が次のように私たちを脅すはずである。「俺たちの残忍さと無責任さの後始末を、おまえがちゃんと果たしているか今から監視しに行ってやるぞ!」と。被災動物を捕まえては次々と殺害していった長崎県行政がいったい何を査察するのだろうか?今も殺害を繰り返している行政官が動物保護施設を訪れた時、その目に映るものはいったい何だろうか?人権意識に欠ける人々の法案とはこのようなものである。
動物虐待の原因は行政による無責任な飼育者の放置であることは言うまでもない。従ってその解決には動物飼育者への動物飼育免許制度・ライセンス制度が必須である。【脚註3「殺処分政策の廃止を求める請願」を参照】
動物保護団体・愛護団体の取り扱いは実態に即して行われるべきであり、偽りの動物愛護団体には取り締まりとその施設からの動物の救助を、善意の愛護団体には支援と本来行政が負うべき負担が求められる。不正な査察・行政処分を防止するためには、動物保護団体が行政を監視する制度が必須である。動物福祉理念に欠ける行政官の一掃が求められる。救助された動物の行政保護義務の規定はあらゆる事柄に優先して定めなければならない事柄である。「飼育者」の選定に無駄な時間を費やす必要はない。愛護法作成者たちは査察対象から一般飼育者を除外していったいどのように殺処分をなくすつもりなのだろうか?おそらく「殺せば済む」と考えている愛護法作成者たちには、苦しんでいる動物を救い出す理由がないのだろう。
厚生行政の分野である狂犬病予防対策、感染症対策などは、動物愛護法・動物福祉対策から分離することが求められる。動物愛護法が確認するのはあくまでも動物の生活環境・福祉状況である。同様に外来種根絶政策に代表される生物多様性政策も動物愛護法・動物福祉対策と完全に分離することが求められる。1998年動物保護法改正運動における動物運動団体提案の法案〈犬猫以外の動物種もすべて動物管理センターで殺処分できる法案〉【脚註1】、2005年民主党動物愛護・外来種対策ワーキングチームによって提案された同様の法案【脚註2】のような殺処分法案は動物愛護法に絶対に持ち込むべきではない。むしろ厚生行政・環境行政・農水行政における飼育動物・野生動物・家畜の大量殺処分政策は、犬猫の殺処分政策同様、動物愛護法に適切な制度を盛り込むことで無効にし、禁止を定めるべきである。犬猫の殺処分政策はライセンス制度の導入によって廃止を、家畜の感染症による大量殺処分は治療義務を課すことによって廃止を、生物多様性政策に基づく外来種大量殺処分は生物多様性政策そのものの廃止によって殺処分の廃止を実現することが求められる。動物愛護法の目的は、あらゆる苦痛と殺処分からの自由でなければならなかったはずである。
これまで動物飼育者の把握は狂犬病予防対策を窓口として登録、予防接種の際に行われて来た。しかしながら登録料、予防接種料ともに高額である上にその金額設定の根拠も定かでなかった。なぜ保健所には多くの獣医師がいるのに高額の接種料を支払って民間獣医師が担当するのか?行政と獣医師会、製薬会社の癒着を疑わせるものがあった。この高額な登録料・接種料が足かせとなって都市部に比べて所得水準の低い地方では動物把握の窓口の機能を失っていた。現在幸いにも日本には狂犬病は発生していない。しかしながら狂犬病は危険であると行政官は語っているにもかかわらず動物輸入は野放しである。動物を本来の生活の場から引き離す動物輸入は動物福祉の観点から禁止すべきはずである。外国船から飼い犬が上陸するなど水際対策の不完全さも行政の怠慢を窺わせる。保健所・動物管理センターに収容される動物に至っては狂犬病予防接種さえ行っていない。このありさまにもかかわらず一般飼育者へは高額の負担と厳しい罰則が課せられている。ここでもまた原因を放置する自分たちの怠慢を棚に上げて、自分たちを治外法権にして、その付けを民衆と動物に押し付けている。厚生省・環境省は狂犬病予防対策の方法・費用とともに、一般飼育者・動物取扱業者による動物虐待を防止するための動物飼育の実態把握の方法を根本から見直すべきである。
環境省はこれまで感染症対策による殺処分制度を〈自分たちが殺したい動物を殺すための方便〉として利用してきた。犬にあっては保護するのが面倒なので狂犬病予防対策と称して殺処分を推進してきた。外来種問題では邪魔者の殺処分を推進するために感染症の怖れを利用してきた。アライグマの回虫ではその発見に夥しい数のアライグマが殺処分されてきた。感染症対策は、人間の場合同様、動物の場合も殺すことである必要はまったくない。人畜共通感染症の危険を喧伝する者たちの本性は正に殺戮者なのである。
動物虐待は感染症対策に発している。しかし感染症対策は動物虐待対策とは何の関係もない。本来関係がないものを関係付けることは、制度設計を誤らせ動物福祉の促進を阻むものに必ずなる。感染症対策と動物福祉を分離して考えることができない人、生物多様性政策・生態系保全対策と動物福祉を関係付ける人は、現在厚生省・環境省が推進する政策ー動物の大量虐殺ーを容認し推進する考えに至るはずである。「大量殺戮を推進する人は感染症対策と生物多様性政策を推進する」のである。感染症対策の理念と動物福祉理念は相反関係にあるため、動物福祉対策は感染症対策から修正を迫られる。そのため愛護法を大量殺処分を前提に形成する以外に方法がなくなる。今日の愛護法作成者が大量殺戮を前提に法律形成を行うのはこのためである。動物愛護法を健全に形成するためには、大量殺戮に奉仕する狂犬病予防法による殺処分政策、同じく大量殺戮に奉仕する生物多様性政策などを愛護法から分離して、またはこれらの大量殺戮政策を廃止して、動物を窮地に陥れるあらゆる事態を想定して、あるいはそれらを想定できない事態を想定して、動物福祉の観点から合理的であれば動物を窮地に陥れるあらゆる法令の適用除外を可能にする条文を明記して、動物愛護法を動物福祉にのみ奉仕する法律として構築する必要がある。
生物多様性政策に代表される今日の自然保護行政は、自然を「人間が所有する財産」と位置づけ、希少種・在来種を珍重するために、「その財産を毀損する」と生物学者・環境NGO・動物運動団体が位置付ける、本来の自然の働きまでも地上から排除しようとする誤りに陥っている。種の保存主義が裡に持つ排斥主義、自然と人間の闘争関係が、生物多様性政策の駆除事業・保護増殖事業の本質である。そのため当然のことながら外来生物法は、いかなる方法でも野生動物を保護できない仕組みとして定められるに至っている。長崎県野生動物救護センターでは同じ野生動物でも外来種は救護しないとの方針である。敵国民でも救護するのが医師倫理のはずである。獣医師倫理は地に堕ちている。外来生物法には動物保護への強い敵意が存在している。我々は動物愛護法に現在、生物多様性政策が強力に入り込もうとしていることを洞察して、むしろこの誤りを是正する役割を動物愛護法に担わせる必要がある。
全国的に都市部に比べて郡部での動物福祉対策は進んでいない。犬猫の持ち込み・捕獲殺処分は圧倒的に郡部が占めている。郡部での有効な虐待防止対策はおおむね都市部でも有効である。動物飼育免許制度は殺処分を近い将来ゼロにして我々の保護事業も必要なくなるであろう。飼育免許制度がなかったことで雲仙普賢岳の動物の置き去りが発生した。厚生省・環境省の感染症対策の結果、置き去りになった動物たちが次々と保健所に捕えられ殺害されていった事例は無くなるはずである。郡部対策の最も有効な方法は自治会を通して動物飼育者と動物を把握する方法である。その際、狂犬病予防接種の有無・登録の有無は切り離して調査することが必須である。目的を混同したり取り違えることは許されない。地方では自治会長またはそれに代わる者を通して動物福祉の情報の伝達、指導を行うことが最も効率的である。自治会の集会で伝達される通知は郡部の人々に最も信頼と敬意を持って受け入れられるものである。なぜこれまで身近に動物福祉の通知が存在しなかったのか?我々が見るものはいつも保健所への遺棄を勧める行政の通知のみであった。このことが民意を低下させ遺棄・保健所への遺棄・過剰繁殖・虐待・飼い殺しを産み出してきた。動物虐待は我々の身近で起こっている。だから、庶民の日常生活の中に動物福祉の理念を注ぎ込む事、このことが最も重要で有効である。
学校飼育動物にあっても他の動物同様放置されたままである。文部科学省には担当部署さえ設置されていない。そのため教育委員会・学校への指導はなされていない。「家庭動物等の飼養及び保管に関する基準」の福祉条項はあってなきごときである。文部科学省委嘱研究として日本初等理科教育研究会から優れた指導書「学校における望ましい動物飼育のあり方」が出版されているにもかかわらず学校現場では生かされていない。理科教材・情操教育の教材として生きた動物を用いることは根本的に間違っていると思われる。学校飼育動物は今後、現在飼育中の動物が寿命で亡くなるのを待って廃止に向ける必要がある。それまでの間、ライセンス制度での指導は必須である。
これまでの動物愛護法形成過程には様々な問題が横たわっている。殺処分行政の核心はガンジーの言葉「国の偉大さ、道徳的発展はその国における動物の扱い方で判る」ですべてが言い表される。結局のところ法律形成に係る人々の人格の問題に辿り着く。雲仙普賢岳噴火災害では行政及び長崎県獣医師会は我々が保護した被災動物の受け入れを拒否した。長崎県の動物愛護協議会では良心的動物愛護団体がすべて排除された。古くから国の審議会では、動物保護団体を選別し行政から閉め出すことが公然と審議された。低い人格が行政を支配しているのである。この問題にメスを入れることなしに動物虐殺がなくなることはない。小泉被告の厚生官僚殺害は正しかった。しかし今日、動物殺戮の本当の首謀者は動物愛護法・外来生物法作成者たちである。
太郎の友 代表 今井 真
脚註1
1998年「動物の法律を考える連絡会」作成「いのちにやさしい社会の実現を 資料集1(改訂版):「動物の保護及び管理に関する法律」の改正を求めて」では、その新旧対照文に、旧〈犬及びねこの引取り:犬又はねこの引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない〉を新〈犬及びねこ等の引取り:犬又はねこ等の引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない〉に変更する法律案が記されている。その「改正の趣旨説明」では〈 (犬及びねこ等の引取り) 近年、空前のペットブームにより、犬とねこに限らず実にさまざまな小動物が売買され家庭などで飼育されるようになってきた。その結果、それらの小動物が公園や山地などに捨てられ、野生化して生態系に影響を及ぼす場合も少なくない。行政は、犬及びねこその他の動物の遺棄の防止に努めるとともに、止むを得ない場合にはこれらの動物を引き取る必要がある。〉と記されている。
上記〈行政は、犬及びねこその他の動物の遺棄の防止に努める必要がある〉の目的は、遺棄動物の殺処分防止ではなく、希少種・在来種の減少を防止するための愛護動物殺処分推進の文言であることに注意する必要がある。行政が犬の狂犬病・咬傷事故を防止するために遺棄防止を呼びかけ、遺棄場所を管理センターと指定し、殺処分の推進を計ることと同じである。生態系保全理念は動物福祉理念を内包しないため、必然的にその法案は動物の行政殺処分に辿り着く。ナチスドイツでは生態系保全理念に基づき、野鳥の保護のために野良猫が殺処分された。当時の自然保護団体はヒトラーの自然保護政策を熱狂的に支持した。今日のヤンバルクイナ保護のために野良猫が殺処分され、環境NGO・動物運動団体がそのような外来種根絶政策を熱狂的に支持する事例と同様である。
ちなみに、太郎の友(旧:雲仙被災動物を救う会)はこの項目の削除を「動物の法律を考える連絡会」に求めたが、削除されなかったため「連絡会」を脱会した。この法案はその後、自民党に提出され、後に外来生物法として発展し、遺棄された飼育動物・自然界で繁殖した動物の大量虐殺を産み出した。太郎の友は当初から今日まで一貫して外来種根絶政策に反対し抗議している。
脚註2
2005年3月、民主党動物愛護・外来種対策ワーキングチーム提出、「動物愛護管理法の改正に関する検討事項(政策骨子)では、生態系への配慮として〈生態系に対する侵害の防止〉を加え、〈「犬及びねこの引取り」は「愛護動物の引取り」に改正する〉とし、犬猫以外の愛護動物に対して〈他の愛護動物は「引き取ることができる」とする〉としている。脚註1の「動物の法律を考える連絡会」改正案とまったく同じである。