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外来種根絶政策の問題点

 

 

自然保護運動の本質

2003年6月14日 記

 

 希少種をめぐる自然保護団体と外来種の闘いには、農林作物をめぐる農家と野生動物との闘い同様の、自然との闘争関係が存在しています。この関係こそ、自然保護団体をして自然破壊を以て生態系保全に駆り立てる真の要因なのです。

 

 通常人々は、外来種が自然を破壊するので、自然を守るために外来種を駆除するのだ、と思い込んでいます。ところが自然科学的に事態を捉えると、その解釈は事実を逆さまに捉えた結果なのだと理解できます。

 

 いうまでもなく自然保護団体は希少種の生命を大切にしているのではありません。希少であるという言葉が示すとおり、希少種の重要性は「人類の手からそれが失われる喪失の危機」感から生じているのです。もしある外来種が原産国で絶滅し、日本にのみ僅かながら生きながらえているとすれば、自然保護団体は絶滅をくい止めた日本の風土を誇りに思い、血眼になってその外来種を守ることでしょう。

 

 自然保護団体といえども、たしかにいざとなれば「希少種や在来種の生命も大切だ!だから外来種を駆除することもやむを得ない。」と、あたかも生命の価値を重視するからこそ外来種を問題にするのだといわんばかりの態度を取ったりするでしょう。しかし外来種を殺すことと生命を大切にすることは両立しません。外来種の生命と希少種の生命は自然科学の観点からは同じものであり、倫理的には共に尊重すべきものです。ですから外来種の生命を奪うためには、自然科学的認識と倫理的認識を軽視しなければなりません。そうしてはじめて外来種の生命を軽視できるのです。本当に自然科学や倫理に忠実であろうとすれば、その人は外来種を駆除したりできません。それどころか外来種を問題視することさえできません。問題は人間にあります。

 

 ところがここで自然保護の人々が「貴重な生態系を守るために特定の生命を取り除くことはやむを得ない。我々は生命を軽視しているのではない。しかし生命界全体を守ることは人類の使命である。」と主張したとしてみましょう。自然保護の人々が常々我々に語っているように「頭の悪い人には直ちに認識できない高度な価値が存在する。だから個々の動物への感傷は控え、生命界全体を守る高い教えに従いなさい!」と語ったとしましょう。すでに述べたように外来種撲滅主義者は個々の生命を取るに足らないものだと軽視しています。それどころかこれらの人々の前では、個々の生命は存在さえしていません。個の生命を認識できない人が、生命界全体を認識できるはずはありません。これらの人々が語る大切な生命全体とは本当は生命について語っているのではありません。それは「生命」を除外した後に残るものです。生命体から生命を取り除くと、後には「物質」が残ります。生命を除外した「貴重な物質」の保存主義こそ、これらの人々が大切にするものであり、だからこそ動植物をゴミのように「宇宙船地球号」から捨て去るのです。

 

 私たちがこのような人々の言葉に幻惑されないようにするためには、この時点で教育から解き放たれた自由な思考を必要とします。たいていの人は一人で新たに考えることよりも、多数の権威がすでに語っていることを優先します。そのため自在に言葉を継ぎ足すことのできる人々の悪の誘惑に簡単に身を委ねてしまいます。それどころか頭のいい人間の仲間だと思い込んでいる人ほど、これらの言葉は正当であるかのように聞き取ることになります。考えることを止めると、与えられた教え、つまり教条がすべてとなります。このような人々は将来、「外来種の駆除は非倫理的な行為だ」と権威が認めるようになると、進んでその教条を唱える人々になります。しかしそれが何故そのように云われるのかはその人の内面では謎のままです。たしかに誰かの書いたことを賢く記憶し、テストでは満点を取るのかもしれません。そして場合によっては教授職に就き、外来種駆除の非倫理的側面を教授する人間にさえなるかもしれません。しかしこの人々はその後、姿を変えた第二第三の外来種を血祭りにあげることになります。ちょうど今日の生態学者が、姿を変えた生態系である外来種を血祭りにあげているように。今日の自然保護団体は姿を変えた自然を血祭りにあげているのです。

 

 こうして自然保護運動が、外来種を駆除することで、自然破壊団体へと至った道筋を私たちは辿ることができます。生命の軽視と論理的思考を欠いた教条主義こそ今日の自然保護運動の本質なのです。

 

今井 真  2003年6月14日 記

 

 

 

 

 

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