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外来種根絶政策の問題点
殺戮によってしか在来種を救えない場合、私たちはどのようにすべきか
2010年 記
外来種根絶政策には、在来種を保全する手段として罪のないものに罪を着せ殺戮を行う大きな問題点が存在しています。罪をなすり付ける行為と、罪のない者を殺戮する行為は、人間にとって最も恥ずべき行為であるといわねばなりません。対象が人間であればとうてい許されない行為が、権力や武力を持たない存在に対しては平然と容認されているのです。濡れ衣を着せる行為の動機となった「在来種の保全理念」の正否に係らず、この2点によって外来種の殺戮行為は不当な行為であると言うことができます。そのため私たちは、生命の危機に直面する場合を除き、生態系保全の観点からはいかなる場合でも外来種を殺戮することはありません。たとえ外来種の殺戮をしないことで在来種が絶滅に至る場合でも、私たちに外来種を殺戮する選択肢は存在していません。
この選択は「罪のない者を殺戮しない」意思のみで成立します。しかしこの意思が自分の中に見出せない人でも「在来種保全理念」の不当性を認識することで外来種を殺戮しない道を選ぶこともできるのです。在来種保全理念の不当性とは、本来不可分の自然界を特定の目的のために在来種と外来種に分離する不当性です。自然界の崇高な働きを感じ取ることができず、自然を自分の所有物のように色分けして保存と廃棄を平気で行う人は外来種根絶政策の不当性を認識することはできません。外来種根絶政策の不当性を認識するためには、第一に罪のない者が殺戮される残虐性を感じ取れること、第二に罪のない者に罪を着せる行為の非倫理性が感じ取れること、第三に在来種保全理念つまり種の選別理念の不当性を感じ取れること、いずれか一つの要件のみで外来種根絶政策の不当性を認識することができます。
この三つの要件はいずれも個人の資質に大きく依存しています。「論理的な認識」を導き出すための「感覚」に問題がある人は事実を正しく把握することはできません。平気で動物を殺せる人、意味もないのに植物を取り去る人は残虐性を感じ取る資質に欠けているということができます。同様に平気で他人に責任を転嫁できる人は、物事の倫理性を感じ取る資質に欠けていると言うことができます。在来種保全理念の中に含まれる在来種への執着心とその結果導き出された種の選別理念の不当性を感じ取れない人は外来種根絶政策の不当性を認識することはできません。人権感覚が欠如している人に人権が尊重できないのと同じように、残虐性の感覚が欠如している人、倫理観が欠如している人、自然の働きへの認識力が欠如している人に虐殺を止める認識を得ることはできません。
外来種排斥主義は単に、人間生活にとって外来種が不都合とされているのではなく、外来種を生物学として「地上に存在してはならない存在」と位置付けるものです。有害鳥獣駆除のように、自分に降り掛かる火の粉を払いのけるというのではなく、真理そのものをねじ曲げ、徒党を組んで殺戮の根拠とすることに問題があるのです。在来種保全理念の不当性をたとえ職業思想家のようには認識できなくても、認識の前に、私たちには不当性を「感じ取る」可能性が開かれているのです。反対に、外来種を自然界から分離することに違和感を抱かない人は、外来種根絶政策の学術的不当性を認識することはできません。この三つの資質がすべて欠けることで人は、「外来種根絶主義者とその仲間たち」として地上に存在することになります。
「外来種に罪はないけれど、在来種を守るためには外来種を殺戮する以外にない」と多くの人が考えています。しかし罪のない者を殺戮する行為は卑劣な行為であると一般的に語ることができます。もしこの一般論を超えて「在来種を保全するために外来種を殺戮する行為」を正当な行為と見なすためには、例外的に卑劣な行為が免除されるための要件を必要とします。 外来種根絶政策の目的は、特定の種の保存のために特定の種の殺戮を目指すものです。問題は「種の保存理念」の正否にあります。根絶主義者は「種の保存理念」が、殺戮行為の非倫理性を無効とする、より高い性質を備えた理念であることを証明しなければなりません。 外来種の根絶を主張する人々には第一義的にこの根拠の提示が求められているのです。
外来種根絶主義者は外来種根絶政策の生態学的根拠を列挙します。しかし 「害」の列挙は、自分たちが殺戮を目指す理由と背景にすぎません。それは「あいつは俺たちにとって都合が悪いから殺せ!よそ者は殺せ!」と言って、都合の悪い事例を列挙しているに過ぎません。そのような「根拠」は、実際には学術的な用語を用いたならず者の言い草にしかすぎません。問題は生態学的根拠自体の正当性なのです。 種の保存主義者は、「種の保存」理念が世界の中にどのように位置づけられるのか?そしてその理念はどのように殺戮を正当とするのかを説明するのでなければ外来種根絶政策の殺戮を正当とする根拠を述べたことにはなりません。「種の保存」とは、それがもし狂気の学者の理念でないとするならば、人間の暴力から「自然の働きを守る」ということでなければなりません。現代の生態学は、種の保存理念に基づき「外来種が自然の働きを阻害する」と主張しています。しかしそれでは移動させられた動植物の存在は自然とどのように対置されるのか明らかにする必要があります。移動させられた動植物が自然界で繁殖した場合、その働きが自然の営みと異なるとはどのような概念なのか説明する必要があるのです。 在来の自然に外来の自然が混入することで自然の働きが自然の働きでなくなるとはどのような概念なのかを説明する必要があります。 そもそも自然物が移動させられたことで「自然物以外の存在に変化する」とはどのような概念なのか説明する必要があります。生態学は自然外物の概念の説明と、移動させられた自然物が自然外物に変化するという証明をなさねばなりません。その証明以前には外来種による生態系の毀損概念は正当性を持つことはないと認識しなければなりません。しかしそのような証明は誰にもできません。 一方、あるいは「元からあった自然の営みは正当だが、自分たちがしでかしたことで、その後の自然の営みは不当なものになった」と考えるとすれば、正当な自然の営みと不当な自然の営みを判断する基準を示す必要があります。自然科学として「正当な自然」と「不当な自然」の分類概念を示す必要があるのです。しかし自然科学は、自然の働きに対して当不当の分類を行うことはありません。もしそのような分類基準を示す自然科学があるとすれば、それは似非科学にすぎません。外来種による生態系毀損概念は科学的・論理的概念ではない、ということを私たちは認識しなければなりません。
外来種根絶主義者の目的は在来種の保全です。この目的を自然保護運動は端的に「種の保存」と呼んでいます。手段としての「外来種根絶主義」を、その目的から端的に「種の保存主義」と言い換えることができます。種の保存主義者は特定の種を保存する手段として障害となる外来種の根絶を目指しています。ここに大きな問題点が存在しています。種の保存主義の理念の本質は、守るべきものと地上から抹殺すべきものを存在物全体から抽出することです。ですから種の保存主義はその目的を最後まで遂行すると必然的に殺戮に至ります。それ以外の結果は存在しません。ですから「宇宙船地球号を守れ!」と語る人々も、種の保存主義を掲げる限り、宇宙船から同胞たちを暗い宇宙空間に無慈悲にも放り出すことになるのです。「種の保存理念」に基づく「種の選別理念」には、同一カテゴリーの存在群を任意の特定の観念によって区分、分類し、一方を高めることで一方の存在意義を否定する働きが存在しています。この「任意の特定の観念」が外来種の地上からの除去を目指しています。今日の生物学は本来の学問に学問とは別のものを紛れ込ませているために、その内容を学術的内容として位置付けるための新しい生物学の定義を付け加えています。外来種を殺すために、生物学的種の定義が困難な存在を生物学的に分類しているのです。このようなことが可能ならば、誰かが任意に特定の集団を特定の状況に陥れ、その区分された状態から新しい人間の種を定義付けることが可能になります。そして自分たちが陥れた新種の人類を、生物学の名の下「種の保存」の観点から虐殺することもできます。生物学的種の定義とは作為的状態を指すのではなく、自然状態を分類することにあります。ですから人間の行為により自然状態から分離させられた動植物の状態を種の分類の定義とすることは生物学的にはできません。生物学の名の下に外来種を在来種と分離してその除去を正当化することは不当なのです。外来種と在来種が分類されるのは生物学的分類ではなく、人間の行為の不当性を問題にする際の社会的な分類概念です。ですから外来種を問題にする場合は、人間の行為を問題にしなければなりません。私たちが常に「外来種問題とは人間の行為に関する問題である」と語るのはこのことによっています。
生物学者と環境NGOが外来種問題において、人間による動植物の拉致の責任に首尾一貫して言及せず、新しい生物学をねつ造して外来種の地上からの除去を目指すことが自然科学的知見によるのではないとすればその原因は彼らの心の中にあります。生態系毀損の責任を、原因においては人間に求め、結果においては外来種に求める錯誤は彼らの心の中で産み出されています。客観点認識を踏みにじって特定の観念によって対象を選別する差別主義は人の心の中に存在する欲望によって生み出されているのです。環境NGOが作成した「野生生物保護基本法」では自然を人類の財産と位置付けています。珍しいものや誰のものでもないものを自分のものだと言い張る欲望こそが「在来種保全行為」の本質なのです。欲望の充足を阻む存在を亡きものにする精神が科学のねつ造を行っています。「生物多様性の保全」「生態系の保全」などの美しいうたい文句は、欲望を覆い隠す美名です。ですから生物多様性条約に外来種撲滅条項が盛り込まれています。 外来種根絶政策に人がどのように向き合うかは、この欲望を感じ取れるかどうかに掛かっています。利己主義と差別主義を属性とする排斥主義に、人がどのように向き合うかに掛かっているのです。 自然は学者のものでも、環境NGOのものでも、人類のものでもありません。それは自然自身のものです。
他者を自分の所有物とみなし、選別と排斥と殺戮を行う根絶政策の場合もまた、対象が人間であればとうてい許されない行為ですが、外来種にそれが用いられる理由は、対象となる存在が弱く、権力と武器を持たず、人間の暴力に対して抵抗できないことによっています。人は弱い存在に対してどこまでも卑劣な行為を行うことができるのです。政・官・学・産・民の大きな力によって最後は法の制定による殺戮の正当化に至ります。従って卑劣な行為を抑止する方法はただ一つ、人間の中の正義の発現のみによっています。マハトマ・ガンジーの言葉「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る」はこの意味で受け止めることができます。動物の権利と人権と自然の権利を分離する人は、自然の権利や基本的人権を理解することはできません。外来種根絶政策を平気で受け入れる今日の人類には正義の力は存在しない、と言うことができます。人が人への殺戮を伴う排斥主義を容認しない理由は、人類の中の正義によるのではなく、自らに降り掛かる場合の利己主義に基づく保身と不満によっています。そのため自分が排斥の対象から除外される場合や、自らが排斥者となる場合には、対象となる人々が権力や武力から引き離され復讐の手立てが奪われていることで容易に殺戮を伴う排斥主義者となることができます。生物が対象となる外来種排斥主義は、対象が人類(自分)ではあり得ないため人間の本性が目に見えるように地上に出現します。外来種排斥主義者の言葉「動物と人間は違う」とは、このような本性が語る言葉なのです。この本性は「動物の場合は誰も文句を言わないので簡単に根絶政策を実施できる。しかし人間には残念ながら簡単にはそれができない。」と語っています。しかしこの本性には対象を限定する機能が備わっているわけではありません。むしろ倫理を顧みず、手段を選ばず理性を粉砕して突き進むことがこの本性の最大の快楽なのです。倫理と理性の対局に排斥主義が存在しています。正義と真理を屈服させることに排斥主義の真の目的が存在しているのです。
排斥運動が社会に定着するためには多数を構成する市民の力を必要とします。独裁者の圧政にはその力はありません。日本でそして世界で外来種根絶政策が猛威を振るっている大きな理由は、市民運動としての環境NGOの存在によっています。市民による犯罪こそが排斥運動なのです。このことが明確に認識できない間は排斥運動の本質を理解することはできません。自然の最大の敵が環境NGOであり、その敵対者は社会から葬り去られることになるでしょう。排斥主義からの自由を得るとともに社会を失うことになるのです。多くの人にとってこの道を選ぶことは困難となるでしょう。このようにして多数の民衆とともに排斥主義が台頭することになります。民族にたいしては民族主義が、人種に対しては種の保存主義が、個人に対しては優生思想が、動植物に対しては種の保存主義に基づく外来種根絶政策が世界の中に現れることになります。外来種根絶政策に賛成する人は、特定の状況に置かれると排斥主義者として人間の殺戮を平気で行うようになります。 外来種根絶政策に反対するに多くは必要ありません。健全な認識力、健全な理性、そして健全な倫理観です。この内の一つだけで人は充分に外来種根絶政策にノーを宣言することができます。しかし外来種根絶主義に従うためには健全な認識力と理性と倫理観のすべてを踏みにじらなければなりません。外来種根絶政策には人間の罪と、概念の錯誤と、倒錯した観念が何重にも折り重なっています。学術的良心を持つ人にとっては、このような事態は決して容認できない事態でしょう。しかし今日の大学者たちにとっては事態は異なっています。 今日の学問は特定の集団の利益に奉仕する存在へと成り下がっています。 その結果、自然のあり方に規定される生物学が反対に自然のあり方を規定するという誤謬に陥っています。生物学が自然を不自然に規定し、人々に人為的な真理に従うように煽動しています。しかしその新しい真理とは、1992年、リオサミットにおいて外来種撲滅条項の導入を導いた人々、すなわち国連において世界の環境政策をリードする生物学者、そして環境NGOのメンバーたちの欲望そのものなのです。
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