外来種根絶政策の問題点
動物の権利 2001
タイワンザルの安楽死撤回を求める声明および要望(動物の権利と移入動物排斥思想の本質)
2001年10月6日 記
以下は2001年、タイワンザルの安楽死撤回を求める声明および要望(動物の権利と移入動物排斥思想の本質)として、(財)日本自然保護協会、(財)WWFJAPAN 、(財)日本野鳥の会、国際自然保護連合、日本霊長類学会、日本生態学会、日本哺乳類学会、環境大臣、和歌山県知事に宛てアピールを行ったものの一部を、変更を加え転載したものです。
動物の権利 2001
動物の権利は普遍的な自然の権利概念に基づく
今日の移入動物排斥思想は、「動物の権利」に関する認識の欠如に基づいています。「動物の基本的権利」に関する概念は、私たちが人間の「基本的人権」と名付ける概念と同一の源によっています。同一の源とは、「地上に存在するものすべてが有する権利」のことであり、ある意味で「自然の権利」と総称することができます。とはいえこの「自然の権利」は、今日の自然保護運動の中で一般的に用いられている「自然の権利」概念とは同一ではありません。これまで用いられてきた「自然の権利」概念は、往々にして「動物の権利」に関する概念を考慮できず、そのため普遍的な自然の権利概念から著しく隔たってきました。その概念の根底には、人類の低次の欲望―利己主義が存在し、ここで言う「自然の権利」概念の対極に位置しています。
利己主義としての従来の自然の権利
従来「自然の権利」概念が取り上げられる時には、その概念は人間中心主義が克服されたものと捉えられてきました。しかし今日、一部の動物保護団体、自然保護団体に見られる、生命中心主義を標榜しつつなおかつ、平然と「ある種の存在」の排斥を推進する運動が先鋭化しています。残酷な殺処分には異議を唱えつつも「特定鳥獣保護管理計画」に賛同し、「タイワンザルの排除」を容認する人々の運動です。これらの人々の運動は、そして従来の自然の権利を標榜する人々の運動は、自然や生命の価値をそれ自体の価値に基づかず、自らの価値観を基準に、自然への介入と侵害を容認する「利己主義」によって形作られています。現代の排斥主義の台頭を容認する危機的状況は、「生命中心主義」が「利己主義」の基礎の上に築かれつつあることによって生じています。
人類・動物・植物・鉱物は固有の自然の権利を持つ
ここで言う「自然の権利」は、対象を限定することで様々に言い換えることができます。対象を人に限定することで「基本的人権」と呼び、また対象を動物に限定することで「動物の権利」と呼ぶことができます。そして、人を除き動物、植物及び鉱物に限定することで、あるいはすべての存在を対象とすることで「自然の権利」と呼ぶことができます。しかし私たちはこの諸権利に関する概念をより正確に把握しようと思えば、次のように捉えることができます。「自然の権利」は、人類、動物、植物、鉱物が保有する権利の総称であるが、人類、動物、植物、鉱物はそれぞれ個々の存在形式に応じた、固有の権利のみを保有する、と。なおかつ「権利」に係わる概念は、自我を有する人類のみが保持するものであり、動物・植物、鉱物それら自身は「権利」概念を保持するものではない、と。
個々の人間は「基本的人権を有する」と一般論として語ることができます。しかしその人権は同一人においても幼児期と成人期では異なっています。人は身分・性別・門戸に制約されることなく就労の権利を有しています。しかし、幼児に就労の権利が与えられているとはいわれません。幼児は労働の酷使から保護されなければならないからです。自由意志に基づいて就労の権利を放棄する就労可能成人に、他者が権利の保障を試みることはできません。各人の個別の状況における存在形式の相違の中に、個々人の「権利」と「義務」の相違が見出されます。人と動物の存在形式の相違の中に、人と動物の「権利と義務の関係」の相違が見出されます。無数の動物種の存在形式の相違の中に、動物種によって異なる様々な「固有の権利」が見出されます。同種の動物にあっても、身を置く状況の相違の中に、個々の動物が持つ権利の相違が見出されます。心的・身体的機能が異なるそれぞれの動物への人間が有する義務はそれぞれ異なっているのです。
自然の権利の本質は他者への配慮にある
人の一般的権利は、個別の状況における個人への配慮、つまり私たちが社会生活を営む中で、他者の生活を脅かす行為を道徳的観点から抑制すべきであるとする倫理的自覚に基づいています。倫理的行動規範としての自然法が、実定法の中で、人権の保障として様々に各人の平和的生活を毀損する無放縦な行為を戒め禁止・制限するのは、自然法自体が人権概念の源を「他者への配慮」に見出しているからにほかならないと考えることができます。自然法は二つのありかたで私たちの前に示されます。一つは「私の私への規範」であり、もう一つは「私の他者への規範」です。前者は個人的な精神の発展に関するもので、後者は社会的正義の実現に関するものです。私たちは実定法を社会的正義を実現するにふさわしい法体系として形成することで「法の支配」を実現することができます。自然法に基づく自然の権利や動物の権利は、実定法の中で私たちの自然への非倫理的行為を制限・禁止することではじめて実体を伴うことができるのです。
「動物の権利」は、私たちが「動物への義務」を自覚することで成立する
権利及び義務は、他者の立場をまったく考慮しない態度―利己主義の対極にあります。人が「他者への義務」を認識するところには「他者の権利」が存在しています。「存在するものの基本的権利」とは、社会の成員が、それぞれ他者に対して「犯すべからざる存在の本質」があることを共通に認識することによって、社会の成員全体に付与される権利です。その結果、その成員の一員である私たちひとりひとりにも、「基本的人権」に類する概念が自覚されます。つまり権利とはあくまでも「認識する他者」によって成り立つものであり、「私の権利」は、私が「自らの権利」についての概念を形成するに先立って「他者によって認識された私への義務」によって成立しています。動物存在には、動物が「自らの権利」の概念を形成するに先立って、私たち人類が「動物の権利に関する概念」を形成することによって「動物の権利」が付与されます。「動物の権利」は、動物が権利概念を形成できるか否かに係りなく、人類が「動物の権利」の概念を形成することで成立する事柄です。動物自身は自らの権利を自覚することはありません。動物の認識能力は、動物に備わる感覚的認識能力を超えて、私たちが形成する思想概念を把握できないからです。地上の存在者の中で「他者への義務」を認識できる存在はただ人間だけであり、人は動物・植物・鉱物に対し義務を認識し、責任を有す、ということができます。そして、人間以外の個々の存在は、他者に対していかなる義務も認識せず、その結果いかなる責任も他者に対して負うことはない、といえます。動物はいかなる義務の不履行―すなわち「罪」も犯しえない、といえます。
一般的・抽象的概念としての「基本的人権」は、実体としての概念「他者への義務」の投影であると言い換えることもできます。人類・動物・植物・鉱物の間の権利関係は、実体としての「義務」の所在によって考察しなければなりません。義務とは「個別の状況における他者への配慮」に本質があります。このことから人権概念は個々の存在を離れて成立しないことが理解できます。従って「他者への義務」に基づく「基本的人権」概念の下では、全体の利益のために個々の存在が犠牲となる「全体主義」は存在しません。生命界全体の救済のために、ある種の生命の権利を剥奪する概念は、自然の権利を尊重する概念からは許されざる行為と見なされるのです。
外来種の罪と人間の罪
動物存在は他者への配慮にまつわる「義務」を自ら以外の動物に対しても、人間に対しても負うことはありません。動物が巻き起こす結果は、それがどんなに自己中心的に見えても、あるいはどんなに残酷な結果を招いているように見えても何らかの「責任」を有するものではありません。なぜなら「責任」とは、「行為」を自らの責任において「選択」できる場合にのみ適用できる概念であり、本能に従う以外の選択ができない存在には「責任」を問うことができないからです。人は一定の制約の中で、「行為を選択できる」ことによって「自由」に付随する「責任」を有しています。ある行為が動物には責任が問えないとしても、その同じ行為に人間は重大な責任を負っているといえます。一定の制約とは、極限的状況の中で、その行為なくしては生命が保ち得ない場合、あるいはその行為なくしては生活そのものが成り立たず、かつその行為以外の選択が不可能な場合、その他、自我及び心的・身体的・精神的機能・能力が未発達のために「人間の尊厳」―「良心」の発現が困難な場合などです。私たちはどんなに努めても、靴を履くことで虫を潰すことさえ許されないジャイナ教の信者―例えばガンジーのように振舞うことはできません。これは現時点での私たちの能力の在り方を示しています。しかし、タイワンザルの政策選択には、このような選択行為を不可能とする一定の制約は存在しません。
自然の権利の侵害としての動物への暴力
人間固有の権利は「自然の権利」の一部ですが、「自我」を保持できない動物の権利とは大きく異なっています。思想・信教・学問の自由、集会・結社・表現の自由、名誉毀損からの保護は、動物存在には該当しない人間固有の基本的権利です。しかし動物の権利は、人間の存在形式と共通する、感覚的・心的及び生命的、物質的存在であることから、「自我に係わる権利」を除く共通の諸権利を保有しています。但し、動物界の様々な存在が、すべて画一的に同質の権利を保有しているということはできません。心的・身体的形式が動物種でそれぞれ異なっているためです。植物は動物と異なり、心的・感覚的要素を欠いているため、人間は植物に対して、動物とは異なる権利と義務の関係を有しています。通常の感覚的知覚能力では把握することができない意識を有する植物存在や鉱物存在への「権利と義務」の関係は、通常の知覚能力で把握し得る人や動物との「権利と義務」の関係と大きく異なっています。動物は自我を有しないために、人類やその他の存在に対して「義務」と「責任」を有することはありませんが、人間は自我を保持していることによって動物にも植物にも鉱物にも、そしてもちろん自ら以外の人類に対しても「義務」と「責任」を有しています。私たちがもしある一定の判断力を持っているとすれば、人とほぼ同一の身体的・心的苦痛を感受し得るタイワンザルに、私たちの利己的動機によって身体的・心的苦痛を与えることは「非倫理的行為」と見なされるのです。私たちが憲法によって保障された生存権の保障、奴隷的拘束・苦役からの自由、不当拘留・不当拘禁・拷問・残虐行為からの自由は、これらの行為によって多大な感覚的苦痛を感受する多くの動物にも同様に付与される正当な基本的権利なのです。
自然の権利運動に根ざす利己主義
私たちの社会では、「人権」に関する概念は一様ではありません。それにもかかわらず私たちは「人権」概念を疑う余地のない共通の概念であるかのように取り扱っています。しかしそれらの共通の認識は実際には「人権」に関するものではなく、「権益」に関する認識なのです。多くの人々が「基本的人権」について述べる時その「権利」とは「自己または自己に係わる既得権」に類するものについて述べているのであって、「他者の権利」について述べているのではありません。「他者の権利」に関する共通の認識は、人権概念、すなわち自然の権利概念へと普遍的に集約されますが、「自己の権益に関する共通」の認識、つまり「個々人の権益の調整による相互理解」に関する認識は、最終的に個人的利益に集約され普遍性をもつことはありません。それは個人的利益の観点を基準に、何らかの力関係によって決定され、時と場合により変化し、普遍性を持つことがありません。外来種根絶主義者が、人為性は悪いといいながら、希少種の人為的な再導入はいい、と考えるのはそのためです。現在の自然の権利を語る人々が、動物の権利を普遍的概念として提示できないでいる理由は、それらの人々が自然を自己の権益と結び付けてしか権利概念を形成できないためです。「権益の調整」において人は、無視し得る主張はあくまでも無視します。なぜなら「利害の調整」機能の内に、主要な利益を優先させる傾向、あるいは自己に係わる権益を可能な限り優先させようとする傾向が本質的に備わっているからです。そのため他者の正当な権利の尊重を客観的に考慮することを離れて、自己保身から孤立化を怖れるあまり、自らの立場を危うくする権力者(民主主義では多数者、時代の思潮、農業団体などの圧力団体、地域社会での有力者、自ら属する小集団、派閥、党派的集団―会社や業界、学会の実力者、自然保護団体、動物保護団体、人権・平和団体)の意向に盲目的に、あるいは巧に従おうとする傾向が生まれるのです。「自らの権利」の主張にともなう利害の調整とは、個人的利益、個人的欲望を社会に対して通用させようと、万人が万人に対して求めているもので、それらは倫理性の対極に位置する利己主義に根ざしているのです。
他者としての外来動植物への配慮の欠如
「他者の権利」の実現においてはそのような弱者の切り捨てはなされません。なぜなら「他者の権利」の概念そのものに「弱者」「少数者」「主張することのできない存在」の正当な権利を尊重する機能が本質的に備わっているからです。『どんなに弱者の権利を尊重しようとしても、世の中の利害関係は複雑であり、対立せざるを得ない。そのような場合、すべての利益を充たすことはできないものだ。少数者の権利を守るために大多数の存在の権利が毀損されるとすれば、少数者の権利が顧みられないのもやむを得ない。』そのように語る人がいるかもしれません。しかし、そのような人は「利害の調整」の観点に立ってものごとを見ているのであって、「他者の権利の尊重」の観点に立って判断しているのではありません。「他者の権利の尊重」すなわち「他者への配慮」は、対立する利益の優先順位を力を持って決定するのではなく、より配慮が必要な存在へと私たちの目を向けさせるからです。力のある者が優先的に救命ボートを独り占めにするのではなくて、独力で難を逃れることがより困難なこども、障害者、高齢者、女性を優先的に避難させるべきなのです。権力の尊重が自己の優先を主張するのに対して、権利の尊重は他者の優先を主張するのです。日本国憲法において「幸福追求の権利」が「公共の福祉に反しない限りにおいて認められる」のはそのためです。私たちの社会では、ある特定の存在の利己的な欲求の追及が、そのほかの存在への配慮を欠く結果に結びつくことにより、社会問題を巻き起こしています。私たちひとりひとりが充分に「他者への配慮」を心がければ、利害の対立に起因する社会問題は存在しません。事実上はこのような完全な認識と配慮を心掛けることは私たちにはできませんが、それゆえに社会問題が生起することによって、私たちは自らの欠如を認識できるのです。社会問題とは、社会における私たちの教師にほかなりません。従って、社会問題の解決のためには、私たちはまず自らの「他者への配慮の欠如」がどこにあるかを探らなければなりません。野生動物は、私たちの横暴な権力の行使を私たち自ら抑制する以外、その暴力から逃れることができない境遇に追いやられています。
動物の権利の認識なしに人権・自然の権利は認識できない
他者の「犯すべからざる存在の本質」への認識、つまり「普遍的倫理観」が、あらゆる判断に優先することによって、少数者・被差別者の「権利」が抑圧されることなく、多数者・権力者の権益優先に対抗できます。言い換えれば、もし私たちが、自らの「基本的人権」を主張しても、誰も「基本的人権」に関する概念を持ち合わせず、耳を傾けないとしたら、私たちは彼らにその理念を持って対することはできない、ということを自覚せざるをえません。私たちの社会が基本的人権、動物の権利を含む「自然の権利」を尊重するか否かは、ひとえにひとりひとりの普遍的倫理性の認識とその獲得に掛かっています。日本国憲法第十二条『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない』はこの意味で捉えられます。私たちには「動物の権利」を尊重する不断の努力が求められているのです。「基本的人権」の存在を認める憲法は、原理的にすでに、動物の権利を含む「自然の権利」の存在を前提にしていると捉えられます。人がもし「人権」や「自然の権利」を認めながらも「動物の権利」を認めないとすればその人は、実際には「人権」や「自然の権利」に関しても何も理解していないのであり、「動物の権利」に関する認識なしには、人は「人権」や「自然の権利」を正しく認識することはできないといえます。
尊重されるべき自然としての外来動植物の自然の権利
「動物の権利」を守るという観点を一面的に社会に適用させることで、一方でそれに伴う権利の侵害がなされる可能性も存在します。生態系の権利を守ると言いながら、タイワンザルの権利を侵害すべきであるとする観点です。しかし、少数者の不利益は全体の利益の前には無視し得る、という観点は克服しなければなりません。大事なのは希少種で、名もなき生態系はどうでもよいというのでは生態系は守られません。保全生態学者、鷲谷いづみ氏はこの点を次のように語っています。『どのような生態系も完全にヒトの干渉を免れているということはない。むしろヒトが生態系の重要な要素であることの認識が重要であり、生態系の将来を決める上では、その要素となっている人々の役割が十分に尊重されなければならない。』この観点は、財産としての自然の利用にあたり、人と人との権利関係について言及したものですが、私たちはこの観点を人と自然の関係についても同様に適用するように努めなければなりません。人と人の間で確立された権利関係が、人と自然の間で確立されるべき権利関係を阻害するものであってはならないのです。移入種根絶を主張する人々にとっての「タイワンザル対生態系」の関係は、本当は「自然対、特定の自然に執着する人々」の関係に他なりません。私たちは人と人の関係において基本的人権を尊重する観点から少数者の自然との係わり方を一方的に軽視することがあってはなりませんが、同時に、人と動物の関係においても自然の権利を尊重する観点から、人の一方的権益追求を抑制する必要があるのです。現在の日本の生態系はどのような生態系であっても、人為的外来種、国内移動種の影響を免れて存在する生態系は存在しません。むしろ人の手によって破壊が進行した生態系ゆえに、自然の力によって現在の生態系に組み込まれることになったと見なされるものばかりです。しかも移入種は私たち人間によってその運命を翻弄されてきた不条理な状況に投げ出されています。私たちはこのような意味からも一つの学説を持って単純に、タイワンザルは在来生態系の敵であると見なすようなことがあってはなりません。在来生態系の自然の権利とタイワンザルの自然の権利は同時に尊重されなければならないばかりでなく、両者の権利の真の侵害者をも冷静に見極めなければならないのです。私たちは、たとえ少数のタイワンザルであっても、すでに生態系に組み込まれている限りその生存権を尊重し、私たちの加害責任を自覚して、むしろ被害補償に努め、諸般の事情をよく吟味し、タイワンザルの行く末を考慮しなくてはならないはずです。一面的観点からの殺戮決定は厳に慎むべきなのです。
2001年10月6日 発表
2008年11月11日 変更