外来種根絶政策の問題点
移入動物根絶政策は石に向けての政策提言 2002
政府・学術研究者・自然保護団体 (WWFジャパン・日本自然保護協会・日本野鳥の会等) に
排除・殺戮等の隔離根絶政策の中止を求めます。
2002年4月 記
雲仙被災動物を救う会 (太郎の友)
代表 今井 真
2002年4月
あるべき政策の考え方
一般に、動物に起因する社会問題と云われる被害等の社会問題を、私たちは人の動物への義務の放棄によって生じたものと捉えています。移入動物が存在することで、これまでの自然が変化を来たすのは、野生動物の生活権を人が軽視した結果であり、また、犬猫などが自然界で繁殖し、人の生活と安全、人の財産としての自然を脅かすのは、人が家庭動物への責任を放棄した結果です。しかしその結果、責任を押し付けられ殺されていくのは常に自分の正当な権利を主張できない動物たちなのです。私たちはこのような状況に強い危惧と憤りを感じています。
動物たちは私たち人間と同じように、「感覚」を持ち、この世に「生」を受けて「存在」しています。私たちが他者としての動物の本能的生を尊重するならば、私たちは自分の勝手な都合で動物に「苦痛を与え」「殺し」彼らの「存在を軽んじる」ことはできません。野生動物を自然環境から引き離したり、養育される必要のある動物を養育環境から引き離すことはできないのです。そしてただ単に殺したり、その存在を否定したりしてはいけないばかりでなく、「苦痛」への配慮が私たちには強く求められています。私たちがこの義務を軽視して動物たちに勝手な振る舞いをする時、人と動物の関係は歪なものに変化します。現在生じているいわゆる「移入動物問題」は、人が「干渉してはならない野生動物への義務」と「養育すべき動物への義務」双方を共に軽視した結果生じた社会問題の代表的な事例です。
私たちは、人と動物の間で生ずるこのような社会問題を、責任の所在を明確にして、原因に応じた対策を施すことで解決に導きたいと願っています。移入動物問題の第一の原因は、自然界への人類の暴力にあります。野生動物を自然から暴力的に引き離し、また自然を傍若無人に破壊する暴力です。第二に、自然界から引き離した動物たちに対して、適正な配慮を心掛ける義務があったにもかかわらず搾り取れるだけ搾り取り利用できなくなったとして放置する保護責任者遺棄としての暴力です。それは幼児虐待と同じ暴力です。移入動物問題は、自然界への人の係わり方の問題であると同時に、自然界から引き離された動物への人の係わり方に関する問題でもあるのです。まちがっても「動物に原因がある問題」と捉えてはいけません。野生動物や管理される動物の問題ではなく、私たち人間の行為に関する問題なのです。
動物の飼養管理に関しては、保護責任者としての飼い主・管理者の責務を重視する施策が求められます。また野生動物への係わりに関しては、個々の野生動物を含む自然界全体への侵略的行為の禁止を定める施策が求められます。動物を介して生ずる社会問題は、私たちが永い間軽視したために、積もり積もった動物に対する義務を、いつまでも果たそうとしなかったことで生じています。私たちの社会全体がこの義務の軽視、つまり無責任を助長してきたのです。義務はそれを人が果たすまで消滅することなく世界の中に存在し続けます。私たちの責任とは、このなおざりにしてきた責務を自らに任じ、継続して引き受け、償うことに他ならないのです。
私たちは、動物の権利と自然の権利を尊重する形式を、掛け声だけでなく現実の中に「制度」として生み出す必要があります。それは「移入動物問題」を生じさせた原因を、問題が生ずる以前に、未然に防止する制度を形作ることであり、現に生じている問題に対して、本来の姿に回復するための制度を形成することです。私たちの法律と行政制度に「自然と野生動物への干渉行為の禁止と制限」「飼養管理等に関する禁止と制限(飼養管理免許制度)」を盛り込むことで事前の対策を形成し、「救済と保護に関する制度」「被害防止対策に関する審査と評価制度」を実施することで事後の対処に努めなければなりません。これらの理に適った方法を用いることで本当の意味での危機管理が可能になり、本来のより自然な姿を取り戻すことがはじめて可能になるのです。
動物を介して私たちの社会に不都合が生じるところでは常に動物たちの犠牲が存在しています。災害が生じている時私たちは、災害に遭遇している人々の救助を後回しにして、防災事業を始めたりはしないでしょう。社会問題に対処する時、第一に私たちに求められるのは、問題によって被害を受ける人々の救済なのです。私たちは、移入動物の根絶を主張する人々が認識できない真の原因と責任の所在、対処法、そして真の被害者を認識します。被害者である放置された動物の救済と、生態に配慮した施策の形成こそが、移入動物に係わる社会問題の真の解決への第一歩なのであり、また私たちに求められる第一の責務なのです。
見直しを求める行政事業と政策を省略ー次項へ
人道に対する3つの罪―根絶政策の危険
今日、多くの自然保護団体と学術研究者はこれらの政策形成責任を放棄して、「排除」つまり動物の存在性を否定し、銃を用いたり、捕まえては殺したりして生命を亡きものにし、手段を選ばない残酷な方法で動物たちの感覚的本能的生を踏みにじっています。この他者の「存在性」と「生命性」そして「感覚性」を踏みにじる態度は、人の存在性、生命性、感覚性を踏みにじる態度と共通するものです。『動物と人間は違う』と学術研究者は語ります。しかしなぜ、動物と人間は違うから、動物は殺してもよいのか?を説明することはありません。学術研究者の殺してもよい理由は常に、殺したい理由を並べ、論拠を問われると窮して、更に他の言葉で殺したい理由を言い換えるだけなのです。確かに動物と人間は違います。人間には動物にない「自我」が存在しています。自我は自己意識の担い手です。私たちが自己を意識するということは、世界と自分との関係を認識すると言うことです。私たちは自我によって、個人的観点を超えて客観的観点を持つことができるのです。私たちが誰かを殺したいと思っても、それが客観的に正当な観点かどうかを吟味できるのはこの自己意識の結果です。私の個人的観点から、私だけが生き延びるために誰かを殺したいと欲することが正当であれば、誰かが個人的観点から自分だけが生き延びるために私を殺したいと欲して実行することも正当であると云えます。このように個人的観点からは普遍的な正当性を導き出すのは困難です。普遍的正当性は自己の立場と他者の立場を公平に認識する客観的観点からのみ導き出すことができるのです。他者の立場をまったく考慮しない態度を、国語辞典は「利己主義」と説明しています。客観的、普遍的認識を逸脱すると利己主義に陥るのです。自己の欲する事柄の正当性と、他者の欲する事柄の正当性が普遍的に妥当するのは、お互いに「他者の存在性と生命性と感覚性、そして人間固有の自我性を共に尊重する」観点以外にありません。動物が持つ感覚性、生命性、存在性は、自我性を除く、人間に共通するものです。自我を持たない存在よりも、自我を持つ存在をより尊重するのは人間の自然な在り方です。通常、人は動物よりも人間を身近に感じて、自分に近い存在として動物よりも人間との係わりを重視するものです。しかしだからと言って『自我を持たない存在を尊重しなくてもよい』と言うことではありません。自分に似ていないからといって、どこか疎遠だからといって、他者の立場を考慮しない態度は利己主義なのです。私たち自己意識を持つ人間が、普遍的正当性を認識するのは、たとえ他者が「存在性」のみの存在であっても、他者を尊重することにあることに変わりはないからです。私たちは本来、自己意識を持つ人間として、動物の存在と生命、感覚的本能を尊重することを普遍的な正当性と認識せざるを得ない存在です。動物を苦しめたり、殺したり、その存在性を自分勝手に否定して排斥したりすることを偏見に基づく不当な行為であると認識せざるを得ません。現在、学術界、自然保護団体、マスコミ、一般の人々は移入動物根絶思想を当然のように受け入れています。これは、私たちの時代が極めて偏見の多い特殊な状況にあることを示しているのです。
移入動物根絶政策の信奉者たちは『移入動物が生態系を破壊している』として移入動物を殺すことも、科学的見地に基づく生態系保全方法の一つであると主張しています。しかしそれは『日本の農業を守るために輸入農産物の生産に従事する他国民を世界から排除し、虐殺すべきだ!』とする見解が、科学的見地に基づく考え方でも、日本農業を保全する適切な方法でもないのと同じように、誤った科学観と生態系保全理念に基づいています。他国の農業従事者が日本の農業を破壊しているのではありません。問題は「移入された動物」にあるのではなくすべて「移入した私たち」にあります。私たち自身が身を正すことで問題の解決を図る必要があるのです。
自然科学は現象の説明を行ない得ますが、現象の正否は判断し得ないものです。引力の法則を『それは正しい!』と語ったり『あってはならない法則だ!』と自然科学は語りません。自然科学は作用の結果を推論できますが、結果の正邪の判断は為し得ません。自然科学は核爆弾の作用によって『多くの人々を殺すことができる』と推論しますが、その作用と結果の善悪は判断できません。生体実験はある種の科学的知見を生み出しますが、生体実験そのものの善悪の知見には係わりません。倫理的判断の基準は私たち人間の裡にのみ存在します。移入動物の定着を『非在来種導入をきっかけにして、開発によって荒廃した在来生態系が、移入種の繁殖を助長した』と自然科学的に推論できますが、それがよいことか?悪いことか?の判断は自然科学の役目ではありません。在来生態系に執着している人々にとってはそれは確かに許しがたいことかもしれません。しかし、自然にとって果たして本当に都合の悪いことでしょうか?移入動物の定着を現在人々が助けているわけではありません。それは自然が自らの法則に基づいて行なっている経過そのものです。動物の無放縦な自然界への導入は人類の悪しき行いです。これまで行政や学術研究者、動物を食い物にする人々が行なってきた行為です。それは「禁止と制限」が必要な事柄です。しかし、移入動物定着現象は自然の営みです。自然科学者といえども、自然の法則を『けしからん!』と語る権利はありません。どれほど多くの科学者が、移入動物の根絶政策を科学的知見に基づくもの、と語ったとしても、永遠にそれは自然科学的真理と相容れることはないのです。むしろ移入動物の定着現象を『開発によって均衡を失った自然が、その均衡を取り戻す、永い過程の一経過現象である』と推論することの方が自然の法則に即したより自然科学的見解と云えるでしょう。この自然保護団体にとって好ましくない自然の営みこそ、自然科学・博物学が不正確ながら自然の法則を説明する時に用いてきた「進化」そのものです。移入動物の排除は、「進化の法則」を勝手に歪め、その自然の営みを人間が中断し、阻害するものです。それは将来、自然界の異変を生み出し、人間にとっても大きな危機的状況を用意するものとなるでしょう。私たちが行なわなければならないことは、移入動物の排除ではなく、移入動物も含めた自然界への干渉を止めることです。そして本来養育されるべきであった放置された動物を、本来の環境に戻すことが重要なのです。国内農業保全主義者が他国民を『核爆弾を落として皆殺しにするか、有効利用のために生体実験に用いるか?』と相談し合う姿は私たちをぞっとさせますが、多くの自然保護団体や学術研究者に代表される在来生態系保全主義者が『移入動物を皆殺しにするか、生体実験に用いるか?』と相談し合うことに私たちの国民は無頓着です。多くの人権侵害問題と同様、それはマスコミに責任があるのでしょう。今こそ真実を伝える必要があります。
他者の殺戮によって自分の問題を消し去ろうとする態度は、自分の責任を果たそうとしない態度と同じです。それは、現実に生じている社会問題の解決への努力を放棄するものです。その方法は、社会問題の解決方法の一つというよりはむしろ、その無責任で傲慢な態度自体が深刻な社会問題の一つです。それは「ユダヤ人根絶政策」と同じ社会問題を含んでいます。その無責任さと傲慢さはますます大きな混乱を、私たちの社会にもたらします。
移入動物に係わる問題には、第一に自然界への個人と社会を主体とする犯罪が存在し、第二に、自然界から引き離された動物に対する個人と社会を主体とする犯罪が存在しています。そして第三に、社会に対する個人と社会を主体とする利己的排斥主義的政策としての移入動物根絶政策犯罪が存在しているのです。移入動物問題には、【3つの社会問題】【3つの人道に対する罪】が含まれている、と整理して考えることができます。移入動物根絶政策は、社会問題解決への展望を砕き、むきだしの欲望に自らを委ねる理性を欠いた恥ずべき行為です。なぜ私たちの社会にこれほど多くの悲惨な事件が生じ、悲惨な人々が存在するのか?の問いに私たちは、人と多くの共通点を持つ動物への人々の残忍な行いを示すことができます。世界中に広がる環境ナチズムとしての移入動物根絶政策は、まだ人類の意識下に、ユダヤ人根絶政策の精神がうごめいていることを示しています。私たちが移入動物根絶政策を容認する時、その目覚めつつある精神は、新たなユダヤ人根絶政策を生み出すための準備をほぼ終えたことになるのです。